静岡 街並み
静岡市葵区羽鳥の奥の建穂の物件を見に行ったついでに、
建穂神社に寄りました。
実は、去年の夏ごろの写真です。
例によって、今頃になってしまった(汗)。
物件自体はしょうもない山のすそのの、調整区域。
でも何だかのどかで個人的にはきらいではなかった。
その奥に建穂神社がありました。
由緒アルお寺だそうです。
因みに建穂(たきょう)と、一般的に呼びます。
「以下引用」
延長五年(905)駿河国安部郡の建穂神社が「延喜式神名帳」にその名が記され由緒ある神社
最近、建穂寺は弘法太子(空海)を開祖と仰ぎ、平安時代(794〜1180)に創建された学問の寺であった事が分かった。
白鳳十三年(六六二)法相宗の道昭が草創し、養老七年(七二三)に行基が再興したと伝えられる。
また、「神仏混淆」の寺として、複雑な側面を持っていた。
寺と神社が共存する境内に「建穂神社」があって、馬鳴(めみょう)大菩薩が祀られていた。
創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として、天平七年(七三五)の「寺領寄進」の記録が寺の古さを特徴づけている。
安倍七観音の霊場でもあり、観音堂には珍しい稚児舞が伝わっていた。
(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)
鎌倉時代の高僧南浦紹明は、幼年期を建穂寺で修行した。
学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川 徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり廃寺となった。
文化財の一部は、観音堂内に保存されている。
奈良時代には僧行基が聖武天皇の病気快復を願って彫った観世音菩薩を納めた寺として知られ、その後、鎌倉時代には、久能寺と共に駿河文化の中心として栄えた寺で、今川時代や江戸時代には、保護が厚く、徳川家康から四百八十石の朱印を受けたといわれている。
大応国師も五歳の時此の寺で浄弁法師に就いて十五歳まで修行しここから鎌倉に出かけた。
境内には、ちょっと奈良にでも来たような、静けさが漂っています。
境内のそばのそば屋(名前を失念した。失礼・・)に立ち寄りました。
書の有名な人が住職だったとのことで、
りっぱな書の色紙がいっぱいあった。
おろしそばを注文したが、結構おいしかったです。
リンクがめちゃくちゃなのと、神社もちゃんと撮れてなかった。
携帯でとったので、ぼやけてるのもご容赦下さい・・・。
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静岡 不動産 ブログR
建穂神社に寄りました。
実は、去年の夏ごろの写真です。
例によって、今頃になってしまった(汗)。
物件自体はしょうもない山のすそのの、調整区域。
でも何だかのどかで個人的にはきらいではなかった。
その奥に建穂神社がありました。
由緒アルお寺だそうです。
因みに建穂(たきょう)と、一般的に呼びます。
「以下引用」
延長五年(905)駿河国安部郡の建穂神社が「延喜式神名帳」にその名が記され由緒ある神社
最近、建穂寺は弘法太子(空海)を開祖と仰ぎ、平安時代(794〜1180)に創建された学問の寺であった事が分かった。
白鳳十三年(六六二)法相宗の道昭が草創し、養老七年(七二三)に行基が再興したと伝えられる。
また、「神仏混淆」の寺として、複雑な側面を持っていた。
寺と神社が共存する境内に「建穂神社」があって、馬鳴(めみょう)大菩薩が祀られていた。
創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として、天平七年(七三五)の「寺領寄進」の記録が寺の古さを特徴づけている。
安倍七観音の霊場でもあり、観音堂には珍しい稚児舞が伝わっていた。
(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)
鎌倉時代の高僧南浦紹明は、幼年期を建穂寺で修行した。
学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川 徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり廃寺となった。
文化財の一部は、観音堂内に保存されている。
奈良時代には僧行基が聖武天皇の病気快復を願って彫った観世音菩薩を納めた寺として知られ、その後、鎌倉時代には、久能寺と共に駿河文化の中心として栄えた寺で、今川時代や江戸時代には、保護が厚く、徳川家康から四百八十石の朱印を受けたといわれている。
大応国師も五歳の時此の寺で浄弁法師に就いて十五歳まで修行しここから鎌倉に出かけた。
境内には、ちょっと奈良にでも来たような、静けさが漂っています。
境内のそばのそば屋(名前を失念した。失礼・・)に立ち寄りました。
書の有名な人が住職だったとのことで、
りっぱな書の色紙がいっぱいあった。
おろしそばを注文したが、結構おいしかったです。
リンクがめちゃくちゃなのと、神社もちゃんと撮れてなかった。
携帯でとったので、ぼやけてるのもご容赦下さい・・・。
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